自分に過去起きた理不尽な出来事、
私の例で言えば・・例えば小学校教師によるセクハラ事件とか。
確かに、『それにいつまでも執着していては自分の人生が台無しになってしまう』っていうのはありますが・・
かと言ってなにも許す必要もないと私は思っています。
・・ですが、
やはり、自分の人生にとって何がベストなのかを考えた時には“諦める”ことも必要だとも思うんです。
“諦める”のは“許す”ことと一緒じゃないか?
って感じもしますが、
いえいえ、大いに違います。
“諦める”とは“見切りをつけて離れる”ということです。
対して“許す”は“受け入れる”こと。
全然違います。
悔しいことに対して諦めずに最後まで戦い続けることが大事だと言う人もいるかもしれません。
それほどに・・自分の人生をかけてまでどうしても決着をつけたいことがあるとするなら、
それがそれほどに自分にとって大きく大事なことなのなら、最後までしがみついて行くこともまた“生きがい”なのかもしれないし、それはその人その人の自由だと思います。
でも・・
私自身はそれがとっても“もったいない”ことのように思えたりもするのです。
程度の問題もあるのでしょうが、私にとっては“報復のために自分の時間を使う”って、けっこうな人生の無駄遣いです。
はっきり言って自分にとってクソなやつのために自分の貴重な時間を無駄にすんのなんて腹立たしい。
・・そう、好きな人のために自分の人生を使うのは有意義なことだけれど、嫌いな人のために自分の貴重な人生を使うのは・・
私は嫌です(笑)
「嫌い嫌いも好きの内」
ちょっと意味が違うかもしれません(笑)
だけど、同じことのように思うんです。
嫌いで憎くて、その人に拘って、その人をどうにかしたくて、
その人に自分の苦痛を分からせたくて、
その人からの謝罪が欲しくて、
・・そんなことばっか考えて自分の人生を送るって・・
嫌いな人のために生きるようなもんです。
嫌いな人のために苦しんで、嫌いな人に自分の人生を捧げるようなことするなんて・・胸クソ悪いです(笑)
どんな生き方を選ぶかは自由です。
・・でも悔しさとか恨みとかに囚われてそこから抜け出せない心であり続けるというのは・・やっぱり不幸だと私は思ってしまうんです。
苦しさから解放されるためにまず逃げずに向き合うことは大切です。
でもなにも戦い続ける必要はありません。
かと言って“理不尽を許して自分の中に受け入れ消化する”なんて立派な解決方法を選ぶ必要もありません。
ちゃんと向き合って考えて、もう自分ではどうにもならんクソなことだと見極めたなら、見限って捨ててしまえばいい。
・・起こった問題全てを完璧に解決しなきゃならない決まりなんてどこにもないのだから。
そんなふうに私は思うんです。
ところで、今日はそんなこんなの私の「諦めて捨てちまえ!」の見解も含めて、最近私が興味深く思っている“仏教の教え”について少し書いてみたいと思います。
・・と言っても私は仏教徒なわけではないのであまり詳しくはないのですが;
ただ、教えの中に「執着を手放すことによって心の安らぎを得る」というのがあるのをどこかで聞いて、それが非常に納得いくことだったので興味を持ったんです。
『人の苦しみって、だいたいが執着から来てるよなぁ・・』ってうっすらと思っていたので。
“諦めて捨てる”も正にそこから来る発想です。
で、そんな仏教の教えで“十界”というのがあるんですが、これがまた面白いんです。
その人の心の居る世界の段階を10段階で表したものと言ったらいいでしょうか・・・?
人の心の状態を大きく10段階に分けて考え、下は『地獄界』から始まり『仏界』までの段階に修行をすることで上がっていくというもので、人は誰もがそのどこかの段階にいるということなのですが・・
その人のいる段階によって、同じ世界でも見えている世界が違うということを言っているんです。
要は“人の幸せなんかは環境とかの外的要因によるものではなくてその人自身の心の在り方の段階による”という教えです。
例えば『地獄』も実は環境が地獄なわけではなく、自分の心の在り方によってそこが『地獄』に見えてしまっているに過ぎないということです。
・・なんか全部自分が原因だと認めるのは納得したくないような気もしますが納得します。(人に「全部お前の心の持ちようだ」と言われるのは違うと思います(笑))
“過去辛いことがあった”という事実は消えません。
確かに環境や他者によって理不尽に与えられた苦痛なんかはもう自分が何か悪かったわけではなく『運が悪かった』としか言いようがありません。
・・でもそれにいつまでも囚われてしまうかどうかの部分はその人の心です。
物事は日々移り変わり、同じ状態でいることはありません。
それまで何事もなく平和でいても突然何が起こるかわからないし、
逆に不幸な出来事があったとしてもそれは過ぎ去り、永遠に続くものではありません。
でも時に人は悔しさという自分の心境から“忘れる”ことを拒んだりします。
忘れてしまったら理不尽を許して受け入れてしまうことになるんじゃないかと、それさえも悔しいからです。
それゆえ、その不幸にしがみつこうとしたりしてしまうのです。
・・私もいろんなことが悔しくて、『あの出来事のせいで自分はこうなった。』と、誰かに見せつけるように自分を不幸な方向へ仕向けていたこともありました。
もちろんその頃はそこまで自己分析できていたわけではありませんが、『あの出来事のせいで自分はロクな人生が送れなかった。』ということを当てつけたいあまり死ぬことさえ考えたこともあったりして。
当てつけで死ぬなんて発想今ではとっても格好悪く恥ずかしいことですが・・その頃は分かりませんでした。はい。
『自分が幸せになってしまったらあの時のことを許したことになってしまう。なかったことにはしたくない!』
そんな気持ちがいつもどこかにずっとずっとあったように思います。
どこかで
『許さないことの証明としてずっと不幸な自分でいなければ』と思っていました。
・・・だから、いつでも素直に幸せを選べなかったと言っても過言ではありません。
いえ『選んでたまるか』という意地です。
そのくらい私の心は怒りに満ちて復讐心に支配され思考回路は複雑に歪んでいました。
・・悔しいんですよね。
ほんと悔しいです。
理不尽な虐待や虐めに合った人なんかなら誰もがその気持ち分かるところはあるんじゃないでしょうか。
だから・・・『許す』必要はないと私は思っているんです。
でも結局、囚われて自分を痛めつけても苦しむのは・・やっぱり自分でしかないんです。
そんなの理不尽の上乗せです(笑)
踏んだり蹴ったり。
それを自分でやってどうする。
・・だから、許すんじゃなくて『諦める』。
そしてそれまで『恨み晴らすまで放すものか~~~』って思ってたものを自分から切り離して、そんな汚いものはゴミ箱かどっかに捨てちまう。
執着を手放す。コレ。
だって、もうしょうがないじゃん!(笑)
だってあいつクズだからしょうがないよ。
クズにやられたことは天災と同じ。
運が悪かったけど運が悪いことなんかほんとは誰にだってある・・。
何も悪いことしてなくても、ただそこにいただけで地震にあってしまったり、交通事故に巻き込まれたり、流れ弾に当たったり・・・。
そういうことだって“普通”に起こり得る。
厳しいけどそれが現実。そしてそれが人生というもの。
例えば親が再婚して連れて来た新しい父が暴力を振るった(私の例ですが)、
でもその時の子供の自分には何も言えなかった・・・。
そんなことも、後で思い出して悔しくなっても「ああすればよかったこうすればよかった」なんて今だから言えることで、
その時はいろんな要因が絡み合って何もできなかったのが現実なんです。
しょうがない。
小学生の時の担任のセクハラもあの時の幼い自分では何も言えなかったしできなかったけど・・
それもまたやり直せない過去のこと。
あの頃の自分じゃ何もできなかった。
しょうがないんです。
もう、過ぎたことは変えられない。
『今後どうしていくか』しかないんです。
過去は変えられないけど、今後どうしていくかは自分で選べます。
どのタイミングで過去に見切りをつけ捨て去るかも自由だし、
自分のペースで、自分のタイミングで、自分の好きな人生を選んで行けるんです。
一生拘り続け、変えられない過去の出来事の復讐のために自分の時間を使って行くのか、、
諦めて自分の執着と共に過去を捨て去り新しい未来を築いていくことに自分の力と時間を使って行くのか・・・。
本当に自由だと思うんです。
・・私だって、もし本当に、絶対に絶対に許せないようなことが起こったら、たぶん気が済むまで拘り続けるかもしれません。
いつか諦めきれる時が来るまで。
セクハラ事件が本当に絶対に消えない傷なんであればたぶん、セクハラ撲滅運動とかおっぱじめるかもしれませんし(笑)
自分の他の楽しいこととかかなぐり捨ててそのために時間を費やして戦うかもしれません。
・・でも考えてみると逆にその悪と戦うことがそこまで自分の使命な気がしないから何もしなかったわけなので・・;
確かに理不尽極まりなく許せないことには変わりないのですが・・
だからといっていつまでも拘っているよりかまあ気が済むまで悪態ついたら後は切り捨てて自分は自分の道を進むことの方が自分にとってはベターな選択なんじゃないかなと、
そんな風に思ったわけです。
もちろん『そんなことでは世の中の悪はなくならない!』というのもありますが・・
そういう使命感を持った方が自身の経験や悔しさなんかをプラスのエネルギーに転換させ、政治家なり運動なりの世の中を良くするための活動に役立てていくということもまた全然前向きな素晴らしいことだと思いますし(私の毒親日記も多少そういうの入ってます(笑))、自分には大変だと思うならしなくていい、
はたまたできることだけするのもいい。
何を選ぶかはやはりその人の自由だと思うんです。
でもどうにしても人生において・・
許す必要はなくても、でも諦める必要がある時というのは必ず人にはあると私は思うんです。
我々“生かされてる”わけで、何が起こるかわからないのが当たり前なんですから。
・・・どんなに清く正しく美しく生きていてもです。
天災も天罰なわけではありません。
何も悪いことしていない人達が巻き込まれるのです。
でもそれが厳しい大自然の摂理。
何億年も、例え人間がいようがいまいが大自然は同じように活動してきました。
そこには悪意も何もなく、ほんとうは敵でも味方でもなく、ただそこにあるだけ。そこで起こっているだけ。
全てのものがです。
そこに後から“意味”を付けているのは人間です。
人間が自然のために何かをやれば自然が人間の味方をしてくれるとか同じものを返してくれるとか・・
そんな都合よくできていません。
自然は“考えて”いるわけでも感情があるわけでもありません。
最初から人間の方がそこにある自然の“流れ”に沿って、自然を利用し、共存して生きて行くことしかできません。
勝手に何を期待しても、期待通りにいかなかった時に『裏切られた』と叫んでも無駄でしかありません。
・・でもこれらのことって、実は自分以外の全てのものに当てはまると私は思うんです。
人間に対してだって、基本そうなんです。
自分以外の他人には勝手に何を期待するものでもないんです。
そう思えば「しょうがない」と諦められることもきっと多くなると私は思うんです・・・。
せっかく生きてるんだから、楽しく生きたいですよね。
楽しく生きるための努力は私はこれからもしていくつもりです。
考え方の努力も。
『十界』で言うなら、なるべく上の段階に行けるように(笑)
最後に、『十界』についてかな~り端折って書いておきます。
先に書きましたが、『十界』とは、人の心の在り方(その人の心の居る世界)を10段階で表したものです。
心境(境涯)レベル1~10、みたいな感じで上に行く程人格者になります。
例えば全く同じ境遇にいてもそれを幸せと感じる人もいれば不幸と感じる人もいるし様々。
・・では何がその違いの要因かというと、その人その人の心の状態・・というわけです。
まあ、だから何に使うかわからない高価なツボをつかまされて『詐欺だ!』と悔しがる人もいれば『有難き幸せ!』と感じる人もいる・・とか言ってしまってはシニカルな例になってしまいますが・・(笑)
そういう例は実は思考停止して現実を見てない人にありがちな大いなる勘違いだと私は思っていますが・・、横道に逸れるので置いておきます。
とにかくそこにある状況をどう捉え、どう感じるかは確かにその人その人のその時の心の在り方による、と言って間違いではないよなと思うのです。
んでもって、その十界ですが・・ざっと書くと
1、地獄界
2、餓鬼界
3、畜生界
4、修羅界
5、人界
6、天上界
7、声聞界
8、緑覚界
9、菩薩界
10、仏界
例え同じ環境の場所にいようとも、レベル1のヘタレ勇者に見えてる世界は地獄でありますが、経験値を上げレベル10まで来た勇者はもう悟りを開いて苦しみなどとは無縁の状態になっています(笑)
・・んでもってその段階ごとの説明です。
『地獄界』にいる人
自己中心。
自分と他者の違いを認められずに自分と違うものに怒りを感じる→もちろん自分と他人は同じではないのでずっと怒りを感じている状態。
(箸が転がってもそれが自分の意にそぐわなければ怒っています)
ゆえにいつでも不愉快。
常に不平不満しかありません。
・・こんな心境でいてはまさに毎日が“地獄”ですね。
地獄に落ちる原因として、嘘、怒り、欲、悪口や愚痴・・等があります。
『餓鬼界』にいる人
アダルトチルドレンによく居がちですが・・
“常に不足を感じている心境”の人です。
「あれが足りない」
「これが足りない」
「あれが欲しい」
「これが欲しい」
「もっと欲しい」
「もっとクレ・・・もっともっと・・・」
満足することがありません。
いつでも“不足していること”に不満や不安を感じ、思考が自己中心な“自分可哀そう”人間です。
ゆえにこれも相当地獄ですよね・・・。
正に貪る餓鬼状態です。
『畜生界』にいる人
知恵が足りない、
考えない、
思考停止状態・・
これもアダルトチルドレンにありがちですね(笑)
考えることをしないから目の前の出来事に右往左往、外的要因によって振り回されてボロボロになったりします。
何も起こらず逃げ切れればいいですがちょっとでも大変なことが起これば自分で解決もできずにすぐにノックダウンのヘタレ・・こんな人はこの世界観の中で生きています。
犬畜生・・とか言ったら動物たちが可哀そうですよね;彼らはたくましく生きますからきっと畜生界にいる人間よりか上です(笑)
また考えない人は同じ過ちを何度も繰り返したりとか責任を取らずに逃げてしまったりとかもします。
『その先どうなるか』とか『こんなことしたら人の気持ちはどうなのか』とか考えられません。
想像力の欠如です。
これもまた“自己中心”の域ですね。
ちなみに高価なツボを買って喜んでいる人はここにいるんじゃないかと思います。
『修羅界』にいる人
「全部人のせい」「相手が悪い」という決めつけ。自分都合の思い込み。
なので話し合いではなく力によって“悪い相手”“間違っている相手”をねじ伏せようとする心境です。
『自分が一番正しい』『他者より自分が優れている』という自惚れ。
嫉妬や自己掲示欲が強い人なんかがこの世界に陥ります。
『人界』にいる人
ここまで来てやっと人間。
いわゆる“普通の”人間です。
怒る事もあれば悲しい時もあり、
でも嬉しい時も楽しい時もある。
迷いもあるがそれなりに対処でき、
それでも時には嫉妬したり人を恨んでしまったりする自分に落胆したり・・
でも失敗しても反省し、乗り越え、前向きに歩き出しまた人生を歩んで行く。
・・いろいろあるさ。
人間だもの。
そんなダメなとこも含めて健気に生きてく心境が『人界』です。
私も今やっとここらへんに来れたかなとか考えたりもして(笑)
『天上界』にいる人
自分が“幸せである”と感じる世界観です。
・・・でも幸せであることにあぐらをかいて調子づき出し感謝の気持ちを忘れてしまったりするとそのうち有頂天になったり自惚れたりして足元を救われ下の界に行ってしまうこともあるよ、という。
だからこの心境まで行けた人はそこで高慢になってしまわないようにちゃんと自分を客観視して気を付け、常に謙虚な気持ちで学ぶことを怠らず、この段階の世界に居る努力をし続けるということを忘れてはならないんだよ、ということ。
そんな心の段階です。
『声聞界』にいる人
「苦しみの原因は執着である。だから執着を持たない。」という仏の教えを守っていける心境ということです。
執着とは・・人に対する怒りとか妬みとか嫉みとか恨みとか・・そんな感情全部です。
まあ、この世にあるものは全て無常(常に移り変わっていくもの)であり変わらないものなんて何もない、そんな不安定なもの一つ一つに執着して振り回されてたら心の安らぎなんて得られないよ、と。
だから執着捨てなさいってことなんですが・・
凡人には難しいことです(笑)
『縁覚界』にいる人
教えを学ぶと同時に自分の中でも悟れる状態。
自分の体験やふとした身の回りの環境、そこにある自然なんかからもいろんな学びに気付ける段階でしょうか。
『菩薩界』にいる人
自分が実は全てのものに支えられて生きている、つまり全てと繋がっているのだということに気付き、だからこそ自分のことだけじゃなく自分以外のことも良くなるようにと広い視点で考える、それがまた自分のためでもあるのだということに気付いている・・
そんな境涯です。
周りの人みんなが幸せにならなきゃ自分だって幸せじゃないんだからみんなに幸せであって欲しい・・・。
・・なんかレベル低々君勇者からすればきれいごとのように思えてしまうかもですが、心の底からそう思える心境の人がこの段階にいる人なんです。
大きな視点で物事を見れる人ですね。
『仏界』にいる人
すっかり迷いがなくなって悟りを開いた状態でしょうか。
もはや人間として生きている意味もないような気さえします(笑)
・・・と、こんな感じですが。
まあでも、全ての人の心の中に全ての段階が混在していて、それを行ったり来たりしているのが普通だそうです。
心が不安定な時、比較的安定している時、ちょっと調子づいちゃった時・・・いろいろありますもんね。
でもそれが、人生経験を積んでいくにつれて少しずつでもレベルが底上げされていくのなら、それが人生の修行を積んでいるということなんじゃないかなとも思います。
修行した先は・・・
知りません(笑)
でも確実に、レベル上げれば上げる程に人間として心穏やかな人生を送れるようになっていけるとは思ってます。
どうせなら生きる喜びとか幸せを感じて生涯を終えたいもんです。
せっかく人間として生まれてきたんだから。