77話 猿の手

毒親
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イギリスの有名な小説で『猿の手』というのがあります。
この猿の手というのは簡単に言うと“3つの願いを叶えてくれるアイテム”。

そのアイテムを手に入れた老夫婦の息子が「借金を返済するためのお金が欲しい」というお願いをするのですが・・
なんとその息子自身が職場の事故で亡くなることで借金と同額の賠償金が手に入るのです。

酷い話ですね;

・・でも現実ってけっこうそういうものな気がするんです。

叶う願いはいつもだいたい納得いく経緯をたどって叶います。
だから、いざ手に入ってみると当たり前の経緯を辿ったり代償を支払ったりしているのでそんな嬉しいとか感激とかじゃなかったり・・。
「そりゃ・・・ね、そのために努力したし・・」みたいな。
でもそれが自然なんじゃないかなと。

私としては、人生必ずしも全てが等価交換だと思っているわけではないのですが・・・
それでもいつでもそれなりの代価を払っているのは後から考えると分かることが多い気がしています。

だからというか、
自分が変わらずに幸せだけを手に入れることは不可能だと、やっぱり私は思うんです。

思った通りの幸せが降ってくるなんてことは期待してもそうそうあるものではありません。
でも誰もがそんな奇跡を期待してしまう・・。
自分は何も変えたくない、でも周りが変わればみんな平和で仲良く幸せになれる、
そんな都合の良いこと考えていたり。

時には全てが自分にとって都合良くいくこともあるかもしれません。
でも・・
もしもそれで思うように行ったとしても、それはもしかしたら周りの誰かの我慢や何かの犠牲の上に成り立っているのかもしれないということも忘れたらいけないと思うんです。
物事が上手くいったからといって感謝も何も忘れ調子づいていた結果、後でしっぺ返しに合ったりとかするとかいう話もたまに聞きますが、あれも別に“罰”とかなわけじゃなくけっこう当然の経緯なんじゃないかなとも。

・・私がこんなこと言うのはあれですが・・
いろいろと私のことなんかで思い悩み続ける母を見ていて以前は罪悪感を持っていた私ですが・・
最近は思うんです。
結局母の悩んでいるようなことって全部、全てを都合よく『おっつけて』上手くいかせてきたツケが回ってきてるだけにすぎないんじゃないかな、なんて。

私は“母の娘”としてずっと精一杯『我慢』してきたし、それが当たり前の私の役目で、そうしなければならないと信じていました。
・・でも、もうしないと決めました(笑)
いろいろあってもがき苦しんで考え続けた結果、気づいたからです。
我慢して母の都合のいいように動いていたこと、
でもそのことは当たり前じゃなく、本当はそうしなくても生きられるんだ、いや、生きていいんだいうことを・・。
だからやめました。

『私が悪い娘だからなんじゃない。
悪い娘じゃなく、刷り込みを外しただけ。
それは悪いことじゃない。
当然の経緯を辿って私は気づき、そうなった。
あるべき姿を自分で取り戻しただけだ。』

今になって、母はやけに他人の“娘との関係”を羨ましがることが多くなりました。
娘と仲良く暮らして娘に旅行に連れてってもらったり心配してもらったり優しい言葉をかけてもらってる同じ歳くらいの友達のことを羨ましがっているんです。
「あの人は幸せだ」
「私はどうしてそうじゃないんだ」
「なんで私の娘はこんななんだ」
「私は一生懸命やってきたのに」と。

残念だけど、私は過去の積み重ねがずっとあるから、その友達の娘さんのように母に接することは天地がひっくり返ってもできそうにありません。
何度も良い関係になるチャンスはあったと思うけれどその都度母がそれを拒否し、めんどくさいことを回避し、自分を省みることが嫌で無視してきた結果がこれだとも思うんです・・。
都合の悪いことを『なかったこと』にして『おっつけて』きた結果がこれだと。
だからしかたないこと。
・・もしいつか、できる日が来るとするならば・・
それは母が心から自分を省み、私のいろいろの我慢の上に自分の成功が成り立っていることなんかを認め、私に対し威張ったり支配しようとするのをやめて“1人の人間”として誠意をもって接してくれるようになった時なんじゃないかなと(笑)
・・言っててあまりにも難題過ぎると思うので期待は全くしませんが(笑)

私は心の底に、人を助けたい、協力したい気持ちは持っています。
・・これは普通の人間の感情と思っています。
普通にしてたら人には良くしたい。
でも・・
私も猿の手の話と同じです。
それなりの理由で納得しなければ母の望みはたぶん一生叶えてあげられないだろうなと。

私はもう自分を犠牲にしたり我慢したりすることで物事を解決しようとするのをやめました。
そして、自分に対する娘の態度をそうさせたのは紛れもなく母の今までの行動、育て方、全てであると、私は思うのです。
その答えが今の親子関係。
私にとっては自然な流れです。
やったことの答えは必ず出るもんです。後になって。

もちろん母だっていろいろ頑張ってきました。
そしてその報酬は、幸せは、既に訪れてるはずです。目がいってないだけで。
私が母の望んでいた通り店を手伝って、実家の近くに戻って来て、結婚して孫もいて・・これって全部母の願っていた幸せな「形」とは言えないでしょうか?
ただ、母の思い描いた通りの形じゃないのかもしれませんが(笑)
そういうもんです。
たぶんこの先介護も私に威張られながらされて嫌な思いをするかもしれません。
・・でもそういうもんです。
やったことは返ってきます。全て。
良いことも悪いことも。

私は・・
もう私の人生で我慢して何かをやるってことはありません。
納得したことしかやりません。
旦那さんにも、子供にも、他の誰にも不満を持って嫌なことをやることはありません・・。
でもどんなに大変でも納得してやる必要があるなら何でもやるでしょう。
本当に人が救いたくて、そのために我慢が必要だったら喜んで我慢もするでしょう。
全部自分で選んでいく。
人は1人じゃ生きれないからこそ、
自分の意志で人に貢献し、人と助け合って幸せに生きる。
それが私の幸せ。

・・そして私も例外でなく、やったことは返ってくるでしょう。
間違ってしまったことも、全て。
でも全て真摯に受け止めていくつもりです。
一生懸命やって思ったような事が返ってこなくても、それが自分のやったことの答えであることは事実なので。
正しかったかは後になってからでないとわかりません・・。
子供の私に対する今後の態度とかも全部私のやったことの答えだし、FXのトレードで大負けしても私の取り引きのやり方の答え。
現実は常に正しいもんです。

だから・・
私は誠実に生きようと思っています。
人と、その中で生きる自分のためを考えて。
誠意を持って、できることを精一杯やり、間違っていたら反省して改める。
そんなシンプルな生き方で、生きて死ねたらそれが幸せなんだと今は思っています。

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