57話 毒親問題のゴールってどこ?

人生の学び
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毒親問題を解決する、と言っても・・・

『解決するって、何?
どういう状態になれば解決?』

・・ということで、
そこについての私の意見です(笑)

解決とは『苦しまなくなること』です。
だから例えば物事がキレイに収まっても、形だけ美しく解決したとしても、自分の心が苦しいままだったら『解決』とは言わないと私は思うのです。

毒親問題のゴールは“親と理解し合うこと”でも“わだかまりを無くして仲良くなること”でもありません。
世間一般の人や周りの人が「良かったね~~」といくら言ったところで、感動して涙したところで、自分の心が良くなかったら良くないのです。

毒親問題の根本にある問題は『依存』だと思っています。
自分の心を満たしてくれなかった親という存在への依存です。
これがあるとまず、相手のことよりも誰のことよりも“満たされない自分”を救うことを基準に行動してしまうので、例えば周りが見えなくなったり人が解らなくなったり本当の目的を見失ったりと・・いろんなことに不具合が生じていきます。
・・結果、『不幸』な方向にハマっていってしまうのです。

つまり毒子の傾向として、親との関係がそうであるがために知らず知らずのうちに“依存の関係”が習慣化してしまっていて、
他の人とも同じような関係を築きがちになってしまう、ということが問題なのです。

とすればゴールは、『自立』。
自分の中にある親への依存心と決別し、自立して自分の人生を歩める人間になること、
それが最終目標です。

その上で結果的に親と自分が理解し合おうができなかろうが、それはそれぞれ違う人間同士の一つの出来事でしかないと、私は思うのです。
そんな大きな問題ではないし、執着する必要もないと・・。

・・とはいえ、
「どうせ分かってもらえないし何も伝えなくていいや~~。」は良くありません。
『やるだけやる』ことはいかなる事に於いても大事です。
なにより自分のために。

『人事を尽くして天命を待つ』という言葉がありますが・・
人事とは“自分にできること”です。
親のことは“他者”のことであり自分にはどうにもできないことなので“天命”ということになります(笑)

やるだけのことをやらずに『どうせ』の先にあるのは後悔です・・。
それが大事な人相手ならなお更です。
できる限りの言葉で伝えたいことは伝え、やれるだけのことはやって、後どうなるかは相手次第ですし、どうなっても、また何も変わらなくても仕方ありません。
自分がどれだけ誠意を尽くしたとしても人にはそれぞれの心の段階や状況があり、受け取れない人もいるし、いろいろなのです。

そして精一杯伝えてそれでもダメなら、諦めるのはその時です。
結果がどうであれ、その現実は受け止めなければなりません。
受け止めたら執着せず前へ進みます。
それだけです。

そうやって、自分の人生を歩いて行くのです。

私達は、親であろうが恋人であろうが誰であろうが、人を自分の思ったように(理想に)変えようとすることが“愛”でなく“執着”であり“依存”だということを自覚しなければならないのだと思います。
・・変えられないものに執拗にこだわり続けるのはストーカーと同じ心理であり時間の無駄、しかも誰も幸せにしません。
ストーカーのやっている行為が“愛”ではないことは誰もが理解していることではないでしょうか・・。

“ほんとの愛”とは自立した人だけが持てるもの。
『そこに愛がなかった』だとか『感動物語ではなかった』だとか・・
いろいろ直視するのは残念すぎたり辛かったりするけれど、
寂しさとか不安とかの弱い心を綺麗ごとで胡麻化したりせずに、打ち勝って自立、前進。コレ。

それができた時が、自分の中の毒親問題が解決する時なのだと私は思っています。

と、これが『毒親問題解決』についての私の意見です。
面白いもので、自分が自立することで結果的に大概の人間関係は良くなりますし、もちろん親との関係も良くなることは多いと思います。
・・でもそうならない場合も普通にあります。(それは親の人格によっても大きく変わります(笑))
しかし良くなろうがなるまいが、そこは毒親問題解決にはあまり関係ありません。
自分の幸せのために重要なのは“親を変える”ことでも“親との関係を良くする”ことでもなく、“自分が自立する”ことなのだということを忘れてはいけません。

・・全てが丸く収まるのがハッピーエンドというのは誰かが描く価値観の中の一つの理想の形。
形に囚われて心が不幸になっていたらそれは“自分にとっての間違い”だということに気付く必要があります。
世間の理想と違っていること=悪いことなわけではありません。
一人一人の人間がみんな違うように、『親子の形』も『夫婦の形』も『幸せの形』も・・みんなみんな“人それぞれ”が本当は当たり前なのです。

『親子の在り方』に対する世間の理想像でよくあるのは・・
親の愛は海より深く、親と子は何より強い絆で結ばれているもの、
親に感謝し親孝行な子供は偉い、
親子仲良いのが素晴らしく、親子は絶対に分かり合える・・
等々ですが・・

確かにそんな親子がいたら感心します。
『楽しそうだなぁ』って思います。
でも、自分ちは違うのに無理やりそこへ寄せて行こうと頑張るのは、、
やはり間違っています。(笑)

いいじゃないか。
うちはうちで。
うちにはうちの楽しい形がきっとある。
幸せの形がきっとある。
それが例え世間様から見てダメダメだったとしても・・・。

現実とは、ただそこにあるもの。
現実は真理。
それをどう受け取るかは自分。
『苦しい』と思えばやめればいい。
幸せだと思う方向に素直に進めばいい。
それだけのこと。

理想の親子像に惑わされんな。
縛られんな。

強くなって真実をちゃんと見て、
自分の心にけじめをつける。
一人で立つ。

・・というか、人は誰しもみんな一人です。
死ぬ時も一人。
それは孤独ではなく“当たり前”であり“孤高”。

親は親。
自分は自分。
一人で立つということは、親を尊重し、自分を尊重するということ。
それぞれが一人で立ち、それぞれの道を行く。
自立し、その上でこの社会の中のいろんな人と対等に支え合って生きていく。
決して“依存関係”ではなく。

それが毒親問題で苦しむ人達の、本当の向かうべき場所、ゴールだと私は思っています。
そこにはきっと自由で楽しく幸せな、自分の人生が待っているはずです。

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