(前の記事のつづき)
母は確かに表面的なことはちゃんと手配していました。
そしてちゃんとした『形』を作ったら、あとはとにかく仕事に専念でした。
母が美容院をオープンした当初はちょうどバブル期真っ盛りの頃だったこともあり、とにかく店を開いて待っていればたくさんのお客さんが毎日どんどん来てくれるといった状況でした。
オープニングスタッフは、その頃既に美容師の免許を持っていた母の妹Rちゃんと、あともう一人くらい雇っていたと思います。
母はとにかく文字通り『がむしゃらに』働きました。
朝から晩まで、お客さんが途切れない限り。
もちろん家のことはそれなりにしかできないので、近所にいた母の方のおばあちゃんが毎日のようにご飯を作って持ってきてくれたり、母の妹Rちゃんもお店の仕事だけではなく、家庭のこともだいぶ協力してくれていました(買い物や私達子供の面倒などです)。
私も掃除や洗濯、布団の取り込みなど、できることは言われてやっていました。
父も今思えば自分で仕事を立ち上げたばかりで大変だったに違いないのですが、母がとにかく忙しかったので、よく父を怒鳴りつけて家事をやらせていたのを覚えています;(母は『旦那を育てた』という言い方をしていますが(笑)まあ不和にもなるし他にしわ寄せが来る原因にもなっていたのは事実です。)
そんなドタバタで滅茶苦茶な毎日ですので、母は本当に子供の細かい事などには関わっていられない・・というか考えている暇がない様子でした。
私も、そういうものだと思っていましたので特段に自分が不幸な環境とも思っていなく、
親が子供を育てるということは、『子供のために働いてお金を稼ぎご飯を食べさせること』と、『必要なものを買ってくれること』くらい、程度の認識だったように思います。
それが当たり前でした。
なのでたぶん・・父に陰で殴られたり虐められたりしたことも全て、自分で我慢するなりの解決をするしかないのだと、
だから『早く大人になって家を出たい』と、そのような方向の考えしかありませんでした。
母に相談して何かを変えてもらおうとかまで考えが及ばなかったように思います。
そもそも忙しくて聞いてくれる暇もないし、そんな忙しい中母にとって都合の悪いわがままなど言えば怒られることはあっても変えてくれることなどあるわけがない・・どころか信じてくれることすらないだろうと、そう普通に思っていました。
と、そんななので私の学校生活等は家庭とは完全に切り離されたところにありました。
私にとっては学校と家庭はいわば『別世界』。
私が学校でどうなのかとか、何があったかとか・・・それらは全て家庭とは別の世界のことで、
母はもちろん何も知らないのが当たり前、全く関係のないことなのだと私は思っていたように思います。
学校で起きた問題等は母にとって『興味がなくめんどくさい』ことであり『仕事の邪魔になる迷惑な事』、
言えば怒られる、全て自分の身に起きたことは『自分一人で処理しなければならない問題』と思っていました。
そんな中、小学4年生の頃事件は起きました。
担任のM先生は40歳前後の男の先生でしたが、私はどうやらその先生に気に入られてしまったようでした。
正確に言うと私だけではなく、私とその当時友人だったYちゃん2人です。
私とYちゃんは2人とも絵を描くことが得意だったのもあり、
「かん子さんとYさんは絵の才能があるから、近くの文化会館の絵の展覧会に連れて行ってあげるよ。」と言われ、休みの日にその担任の先生に連れられて文化会館に行ったりだとかしていました。
・・というか親は知らなかったのでしょうか・・記憶にありませんが今普通に考えるとありえない状況です;
そしてそんなふうにその先生に個人的に話しかけられることも多くなり、そのうちに奇妙なことを言われるのです。
「今度2人で、いや一人ずつ休み時間に理科室に来なさい。」
私とYちゃんは戸惑いました。
「なんだろう?なんで理科室に行くの?何するの?」
しかし担任の先生に言われたことは断れないので言われた通りに休み時間に理科室に行くことにしました。
一人ずつ呼ばれたのでこの時は一人です。
薄暗い理科室に入るとM先生が待っていました。
そしてカーテンを閉め、他の誰かが入って来ないようにでしょうか・・教室の入り口の鍵を閉めました。
そして言いました。
「ここに来なさい。」
私は子供ながらにギョッとしました。
『ここに来なさい』の『ここ』と言って先生が指すのは、その教師Mの膝の上です。
ものすごく奇妙だったし恐怖でしたが、頭が真っ白になりながら言われた通りに先生の膝に座りました。
すると次に「電車だよ。」と言って私の座った膝をガタガタと揺らしました。
私の頭の中は『何やってんだろう・・・』です;
そのうちに先生の手が太ももから下着に・・
もう最高潮に怖かったのですが、私はとにかく我慢しました。
『嫌がったら怒られる。』という思いです。
結局パンツの中に手を入れられ、散々触られた後にチャイムが鳴り、
「あ、チャイムが鳴っちゃったね。もういいよ。」と言って解放されました。
私は変な笑い顔で先生を見ていました。
頭の中はパニックでした。
『何が起こったのだろう?』
後日友人Yちゃんが同じように理科室に行き、私と同じことをされました。
・・そしてそれからというもの、何日かに一度、その先生に理科室に呼び出されるようになりました。
毎度やることは一緒です。
“電車”からの、“お触り”です。
私とYちゃんは深刻に話し合いました。
「やだね。怖いね。行きたくないね。でも行かないと怒られるでしょ。どうしよう・・。」
そんなことが続きましたが、それでも私はM先生に嫌われたくありませんでした。
『良い子にしなきゃ』と思っていました。
なので結局、言われた通り毎回その嫌な行為を我慢して、それでも理科室に通い、そして4年生が終わり、担任が変わり地獄のような日々から解放されたのです。
ちなみに今だから言うのですが、
その先生は男子に対してものすごい暴力行為をしていました。
何か怒られるようなことをした男子がいると、大したことでなくてもその生徒を前へ呼び出します。
そして教壇をズルズルと端っこにどかし、その生徒に殴る蹴るの暴行を加えます。
ある時はぶっ飛ばし、吹っ飛ばして黒板に頭を打ち付けて罰を与えました。
もう私にとっては地獄絵図でした。
・・今の時代だったら即逮捕でしょう・・
そんなことが昔は堂々と、クラスの生徒全員の目の前で行われていました。
・・女子生徒にはセクハラ、男子生徒には暴力と、今思うと最低の教師でした。
・・と、物語ならそれから先生の悪事がバレて制裁される方向に行ったりとかするのかもしれませんが・・
現実としてこの事件は何も解決しないまま終わりました。
それから何十年もその先生はのうのうと教師を続け、出世してどこかの小学校の校長にまでなったらしいです。
しかし思い出すことも嫌だったので、正直その後のその先生のことはそれくらいしか知りません。知ろうとしませんでした。
ですが、このことは実は母には少し後になって話したことがあります。
たぶんお店で母が仕事が一段落してお客さんと喋っていた時だったと思います。
私が
「あの先生は嫌い。」と言うと母は、
「何言ってるん!またそんなこと言ってひねくれて!」と言うので悔しくなって、
「だってあの先生、理科室に来させて触ってくるんだよ。」と言ったら母は真っ青にり
「またこの子は!!あんないい先生がそんなことするわけないでしょう!そうやって恐ろしい嘘つくんだまったく・・この子は底意地が悪いっていうか変わってるんだ!そんな変なこともう言うんじゃないよ!ほんと変な子!」
とにかくものすごく軽蔑するような嫌な顔をして怒られました。
そしてお客さんの方を向いて「全くねぇ、どうしょもない。」と苦笑いして『変な事を言い出す変な自分の子供』を恥じるかのようにお客さんに謝るような素振りをしていました。
・・こんな事からも母は更に私のことを『恐ろしい子』と認識するようになっていったのだと思います。
私が『変なことばかり言う、気味の悪い、根暗で底意地の悪い子供』と言われる原因は他にもあったようです。
私は本が好きでした。
小学生は卒業していたと思いますが・・
ある日私は『物には念がある』といった内容の本を買いました。
例えばカシ〇ョールの絵はお客さんを呼び込む力があるのでお店の入り口に飾っておいたらいい、というようなことが書いてある本です。
私はよかれと思い、その話をしようと母に
「物には物念ていうのがあるんだって・・」と話し始めようとしました。
しかしそこまで聞いた母は途端に真っ青になって
「何気持ち悪いこと言ってるん!!この子は・・・おお恐ろしい、私ゃ今背中がゾッとしたよ、なんか寒気が走った。気味が悪い、物念だって、この子はなにかおかしいよ!そういうことを言うのはやめな!ほんとに!!気持ち悪い!!」
私は黙りました。
自分がそんなに気持ち悪いことを言っているとはツユとも思っていなかったのでそこまで嫌悪感をあらわにされるともうフリーズするしかありませんでした(笑)
と、その他にも本に関しては、母は私の本棚を度々見に来て、そのたびに震え上がりました。
・・私は心理学に興味があったのです。
たぶん、自分の悩みだとか、『どうして自分はこういう風なんだろう?』てことの答えを自分なりに探していたのだと思います。
中学生、高校生と成長するに連れて、私は徐々に心理学系の本を読むようになっていました。
しかしそれを見ると母は「この子は人の心を読もうとしている!」と言うようになりました。
実際どんなに心理学を勉強したって人の心など読めません。
メンタリストDaiGoさんのような、例えば行動心理学とかを勉強をすればあるいは読めるようになるのかもしれませんが(笑)
私には全くそんな動機はなかったので母の言葉に少しびっくりしていました。
・・が、母は私の本の趣味など、とても気持ち悪がっていたように思えます。
実際あまりに嫌そうなことを言われるので、買って来ると表紙を裏側にし、読み終われば捨てるようになって行きました。
私はとにかく本一冊読むにも『悪い事』を隠れてやっている感じで過ごしていました。
というかむしろ『私のやることは全て悪い事なのだ』とすら思うようにもなっていき、何をやるにも『コソコソ』隠れてやるようになっていたように思えます。
一体何を読めば母の理想だったのでしょうね・・
また母は、全て私のやっていることは「わざとやっている。」と言っていました。
その当時は私が何かやるごとにそういうことを言う母の気持ちが全く分かりませんでしたが・・
・・考えてみたら『父が嫌い』と言い出したことからして『母を困らせた事』ですし、
要するに、私はいつもわざと悪いことを言ったりやったり、母を困らせるようなことを言ったり、母の嫌がる本を読んで母に嫌がらせをしたりしているのだ・・と、全てをそういう風に受け取っていたのかもしれません。
母から見て私は常に『母に反抗している』『母を困らせようとしている』ように見えていたのだと思います。
・・母はたぶん、私がそんな母の理想と違う事ばかりするので『底意地が悪い』『ひねくれている』と言っていたのだと思います。
母にしてみれば、そうやって母の理想ではないことをわざとやることで母に『しんねりぐんねり意地悪をする底意地の悪い気味が悪い子供』の私が憎くてしょうがなかったのかもしれません。
今思えば母の口から出ていた言葉は「なんでお前のためにこんなに必死に働いてるのにお前はこんな仕打ちを親にするんだ!私の思う『良い子』にならないんだ!酷い子だ!」みたいな感じのことを違うニュアンスでずっと言い続けていたに過ぎなかったようにも思えます。
母の頭は常に『どうして?』『どうしてこんな子になっちゃうの?』『どうしてこの子は私にこんな仕打ちばっかりするの?』『私は一生懸命やっているのに!』という疑問と悔しさと苛立ちでいっぱいだったのではないでしょうか。。
・・私は確かに嫌なことは嫌でしたが、それは本当に嫌だから言っていただけです。
大概のことは迷惑をかけないように我慢しましたが、口に出してしまう程嫌なことはそれだけ深刻だからであり、だからこそたまに私の口から出る『我儘』はとても、母にとってはもしかしてギョッとする程恐ろしく感じるような事ばかりだったのかもしれません・・。
しかし私は母に反抗する気などさらさらありませんでしたし、そんな発想すらありませんでした。
誕生日にはプレゼントをあげ、常に喜ばせようと、気に入られようとしていたくらいですから(笑)
そうやって作った手作りのプレゼントも、もしかしたら母の目には気味の悪い呪いの人形のように映ったのかもしれません・・。
こんな風に、『私の思っている私』と『母の認識する私』に於ける『ズレ』はますます大きくなっていきました。