42話 毒子の生い立ち 2(無関心と過干渉、支配という虐待)

毒子の生い立ち
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前の記事のつづき)

今になって思えば、母は子供自体に関心があったわけではなく、“子供を持つ母”というステイタスが欲しかったのだと思います。
いえ、100歩譲って『子供を持つ母になりたい』という主体的な思考ならまだマシなのですが、、むしろ母の場合は『子供を持つ母にならなければいけない』という強迫観念のようなものに近かったのではないかと思うのです・・・。

人としてちゃんとしていること=結婚して子供を産むこと、
そうでなければ不安・・という思考です。
これはその当時の社会がそういう風潮だったというのもありますし、それに追い打ちをかけ『世間体をかなり気にする傾向』のおばあちゃんの存在もあるのでしょう・・
母もまた、いろいろな要素が絡み合った自分の周りの環境からそういう価値観を身に付け、それを『当たり前』と思って生きて来た人間なのです。

そんな母にとって、自分の人生になければならないもの・・
それが『結婚』することであり『子供を産む』ことであり、『自分の店を持って美容師をやる』という夢を叶えることだったのだと思います。
その『枠』こそが母の思い描く『幸せ』の形だったのだと。

母は『幸せの枠』を常に重要視し大切にしてきたのだと、私は思うのです。
その中身がどうかなど、たぶん深く考えることもなかったのではないかと。(そういう余裕もなかった時代なのかもしれません)

とにかく、『枠』さえ手に入れば幸せになれるのだと、そう信じていろいろなことを『頑張って』来たのだと思います。

そんな風に『幸せの枠』を信じて生きて来た母は、当然それを私の人生にも当てはめようとしていました。
『子供はこうなれば幸せなのだ』と。

なので常に子供の本心などの『中身』には全く無関心であり、『枠』の部分については必要以上にこだわり、その枠にはめるためにかなりの過干渉でありました。
「こうならなければならない」という『枠』です。

母の中の『こうでなければならない』という『枠』は本当にたくさんありました。
前にも書きましたがもう一度書くと、母の思った通りの良い子とは、

『親の言う事をなんでもきき、素直で、“ちゃんと”していて、親に感謝をし、思いやりを持ち、気遣いができる子。
親に言われたことをすぐにちゃんとやり、口答えなどしない子。
疑問など持たず、親の言ったことを『正しいこと』として全て素直に受け入れる“ひねくれていない”子。
勉強ができて、明るく元気で、大きな声で話し、いつも笑顔で挨拶もきちんとできる、どこに出しても“みっともなくない”子。
言われたことをちゃんと一生懸命頑張れて努力ができて、でも自分の好きな事や親が意味がないと思う事にハマってやりすぎたりはしない子。
お行儀が良くて、場の空気や人の気持ちを察することができ、忙しい親等を気遣って手間をかけさせないめんどくさくない子。
母が怒ったり傷つく地雷を絶対に踏まない子。
何も教えなくても最初から『常識』的なことは何でも知っている子。
自分のことよりも親のことを優先的に考えられる優しい子。』

・・・等々。

余談ですがご近所の魚屋さんのもこちゃんがこれらの母の理想にとても近かったようで、私はよくそのもこちゃんと比べられ、私がどんなに悪い子でダメな子なのかをお説教されたものです。

ちなみに母から見た私は・・
ちゃんとしていないし、ひねくれている、
目つきが悪く根暗で引っ込み思案でシンネリグンネリ、
声が小さくて挨拶もできなくて、常識も知らなくて料理も知らない、
おまけに顔が小さくて髪の量が多いから髪がかぶさってお化けみたいだとも言っていました(笑)
お客さんが言う程痩せていなくておケツがでかくて本当は太っているらしいですし、
変わり者で女特有の陰険さと底意地の悪さを心の奥底に持っていて何考えているのかわからない不気味な子だそうでした。
親を思いやる優しさもないし、人のことなんか心配もしない冷血さを持っているとも・・
「ゾッとする」とも良く言われていたのを覚えています・・・。

・・こうやって思い返してみると、よくもまあそれだけいろんな貶し文句が出てくるものだと感心してしまいますが・・
私はたぶん母の手に入れたかった『理想の子供』とは全く正反対の子供だったのでしょう。
母のサクセスストーリーの一部、『子供を持つ人生』への理想を思い描いて産んだものの、実際には理想と全くかけ離れた私に苛立ち、
思い通りの人生にならない原因である私のことが『母の人生を邪魔する憎らしい子』に思えたのかもしれません。

ちなみにこれらを言われ続けた私に『悔しい』とかの怒りの感情はありませんでした。
あったのは『自分てそんなダメなんだ・・』という失望と恥ずかしさと募っていった劣等感、そして『直さなきゃ』という焦燥感です。

そして母は、そんな『枠』からかけ離れたうんこな私を、どうにか『まとも』な、もこちゃんみたいなちゃんとした子供に近づけようとしていました。
もちろん成績や習い事については『自分の子供はこうでなければならない』というのがありますので、
学習塾はもちろんの事、そろばん、生け花、お箏と・・いろいろな“やりたくない事”をやらされました(笑)

私は実は小さい頃から好き嫌いはあり、ピアノやバレエや、やりたいことはけっこうあった方だと今では思うのですが、、
「お箏やればピアノなんか簡単に弾けるようになるからお箏やりなさい。」やらで瞬殺されましたし、バレエについてはガン無視でした(笑)

習い事は母が勝手に決めて来ることが殆どで、一度だけ、お習字の時にあまりの嫌さに3日で行かなくなってしまったことがありかなり怒られましたが、どうしても行けない私を見てさすがに諦めたようです。

本当はお習字だけでなく、全部、やりたくありませんでした(笑)
でもできる限りのことは全て、『心ここにあらず』で頑張ってこなしていたのを覚えています。

・・そんな感じで、私の中では『やりたくないことをやらなければならないのが人生の普通なんだ』という風になっていたように思います。

また、母は私の言葉を全てと言っていい程奪ってしまう人でした。
どういうことかというと・・
例えば人から質問された時に、傍にいる母が全て私の代わりに返答してしまうのです。
医者に行った時も、洋服屋に行った時も・・
全て受け答えは母がしてしまいます。
一度お医者さんに「娘さんに聞いているんです、お母さんは黙っていてください。」と言われてブチ切れていたことがありますが(笑)
「なんて酷い医者だ!」とそれから二度とその医者には行かなくなっていましたし、美容院のお客さんにもその医者への文句を気の済むまで言いまくっていました(笑)
洋服屋でもいつも母が店員さんと会話し、結局私が意見を言う場面はありませんので、母が思う私に似合う服を買ってもらっていました。
それで「洋服をたくさん買ってやってる。」と言うのですが・・正直私は全く嬉しくなく、有難いという気持ちが沸いてこない自分を責めるような、そんな気持ちでいたのを覚えています。

結局母はどんな時も、いつも自分の想像で私の心を代弁してしまうので、本当の私の気持ちを聞くことなどは全くなかったと言ってもいいのかもしれません。
何も知らない、だけど全然私が思ってもいないようなとんちんかんなことを代弁して言ってしまうことが常でしたので、私はいつもなにか不満げな、もの言いたげな暗い顔を確かにしていたのかもしれません。

・・しかし私がなぜそんな本当のことを言えないヘタレな子供だったのか・・
まあ、今なら強引に母の言葉を遮り「違う!」と言うでしょうが(笑)
・・あの頃、言おうとしてもそれが母の理想の言葉でなければ「まったくひねくれて!!」と強く怒られることが分かっていましたし、それは私にとっていろんな意味で必要以上に恐怖でしたので、子供の私は『そこで自分の主張をすることは得策じゃないのだ』みたいな感じで諦めてしまっていたのでしょう;
それよりか、とにかく母に機嫌良くしていてもらいたかった、、という気持ちが大きかったと思います。
本当の気持ちを言って不機嫌になられて険悪ムードが漂う事態になるくらいなら、本当のことを言わずに機嫌良くいてもらって平和に過ごしたい・・という子供ならではの“今のことしか考えられない”浅はかな考えとも言えます(笑)

・・と、そんななので、私の周囲に私のことを本当に理解している大人は誰一人としていない状態だったのだと思います。

最初から口数が少なかったから母が代わりに喋ってしまっていたのか、
母が喋ってしまうから口数が極端に少なくなっていたのかは私にもわかりませんが・・
私は本当に物静かな、何も喋らない、というか『喋れない』子供でした。

そんな中でも学校の友達等、母がいないところではさすがに私自身の言葉を伝えることはできていたとは思いますが・・
それでも友達が母に会う機会があれば、母が思いもよらないことを(「かん子はこういう子なんだよ」とかいうことを勝手に)喋ってしまうので、
当時私は本当に友達を母に会わせることが嫌でたまらなかった記憶があります。

なんというか・・
『母に会わせたら、私が本当はどんなダメな人間かということを全部ばらされてしまう、母の元にいるダメダメな私を友達に知られたくない』という気持ちがとても強くありました。
そしてそれと同時に、
『外でどんなに格好つけようとしても、実際は母の元にいるダメな自分が本来の私の姿で、私はそれを隠していつも自分を偽っているのだ』という後ろめたい気持ちに常に苛まれ苦しんでいたように思います。
とにかく、母の元にいる情けない“本当の自分”を知られてしまうことがとても恥ずかしく、恐ろしい気持ちでした。

学校の三者面談などでも、先生に母が私の悪いところを全部言ってしまうことで、先生の印象も『ああ、そんなダメな子なんだ』みたいになってしまうんではないかということをとても恐れていました。
・・実際三者面談後の先生の私に対する態度や評価が変わってしまったということもよくありました。

私はとにかく、私が外で知り合った人達を母に会わせたくない・・ということをいつも真剣に思っていました。

『恋人なんかできたら絶対に母には会わせられない!』『本当の私をばらされたら嫌われる』『私はきっと一生結婚もできないだろう』と子供ながらに思っていたのも覚えています(笑)

そんな子供の頃の日々・・
しかし、母が私に対して発していたこれらの言葉の数々を後から客観的に考えてみると、
これはもう『言葉の暴力』と呼んでいいレベルなのではないか?『虐待』の一つと捉えても言い過ぎではないのではないか?と思ったりもするのです。

『虐待』という言葉を使ってしまうのはあまりにも物騒だし大袈裟に思えますが・・
『このくらいの言葉を親が子供に言うことくらい大したことない』と思うのは、その言葉が子供の心に与える影響を考えると甘すぎる認識なのではとも思うのです。
親が子供に発することを良いとした場合、ではもしこれらの言葉を他人に発したらどうなのかと考えると・・
完全に「虐め」と捉えられてもおかしくない言葉の数々なのではないかとも思うのですが・・
どうなのでしょうか?

こんな辛辣な言葉の数々も、親が子供に対して発する場合には許され、『大したことない』と判断されるのは果たしてなぜなのでしょう?
親が『育てて』いるから?親は『責任』を持っているから?子供のためにお金を使っているから?子供のために苦労しているから?子供に対する愛情があるから?・・
だから親には子供を傷つけていい権限があるのか?と。
他人に対してやってはいけないこと、それをどうして子供にはやっても許されるのか?
・・私はとても不思議に思うのです。
『所有物だから私の自由』は間違っていると私は思います。
子供は物ではなく、一人の人格です。
親は子供を保護管理し、育てる義務はありますが、だからと言って子供を支配し好きにしていい権利はありません。

・・たしかに親にとっては理不尽なことばかりなのかもしれません。
けれども子育てはその他の多くの物事とは違う性質があるのだということをちゃんと理解していなければならないものだとも思うのです。
特に“自分から生まれ出た”ということで勘違いしがちですが、子供は親の所有物ではありませんし、親の一部でもありません。
親とは別の一つの人格です。

子供を自分から切り離して一人の独立した人間として考えた時に、人として発して良い言葉と悪い言葉、接し方、扱い方・・
いろいろと発想は変わってくるのではないだろうかと、私は思うのです。

確かに私は流血したり骨折したりする程殴られたりしたことはありませんでした。
“東京タワー”や“うめぼし”が怖かったとはいえアザができるような殴られ方はされませんでしたし、
寒い日に外に締め出され生死を彷徨ったなんてこともありません。
あからさまな性的虐待もありませんでしたし、親が酒乱で暴れたりしたこともありません。
3食のご飯もきちんと与えられました。
親が働かなくて学校に行くお金もない、、なんてこともありません。
むしろ子供達をちゃんと育てるために父と母は“がむしゃらに”働いていました。
「おまえらのために死に物狂いで働いているんだ」とも言っていました。
・・私の親は、親として果たすべき義務は全てこなしていましたし、外から見ると何の落ち度もない『良い親』だったのだと思います。

しかし私の心は病み続けました。
子供の頃のいろいろな出来事は続きます。

(つづく)

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