41話 毒子の生い立ち 1(無関心と過干渉、支配という虐待)

毒子の生い立ち
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前の記事のつづき)

母は一度結婚し、離婚しています。
なので今の父は私にとっては二度目の父となります。

一度目の結婚をして旦那さんの実家に入った母でしたが、お姑さんと反りが合わないことや、その旦那さんの人間性など、
いろいろあって結婚して1年くらい・・私が生まれて間もなく母は離婚しそこを出たそうです。

そんなわけで私には本当の父親の記憶は全くと言っていいほどありません。
母はというとなぜかそのことに触れることはタブーといった雰囲気で、私には一切その話はしませんでしたし、
一度そのことに触れようとした時にすごい目で睨まれたことがあったので、私もそれ以来その事については一切何かを聞こうとは思わなくなりました。
とにかくすごく『触れてはいけない事』だと思っていました。

私と母は母の実家に住むことになり、私の小さい時の記憶は“おばあちゃんの家”で暮らしていたところから始まっている感じです(笑)
母の実家にはおばあちゃん、おじいちゃん、ひいおばあちゃん、母の妹、母の上の弟、の5人が住んでいましたので、母と私を合わせて計7人での暮らしでした。
(母にはもう一人、下の弟がいましたが、警察官でその時には既にどこか他で暮らしていたようです。)

母の実家はおじいちゃんが経営する自転車屋で、おばあちゃんは専業主婦でした。
なのでいつもおじいちゃんとおばあちゃんは家に居た感じです。

母は近くの美容院に務めて美容師をやっていましたので、私の世話はだいたい母の妹とおばあちゃん、おじいちゃんでやってくれていたように記憶しています。

母も母の妹も母の弟もみんな、おじいちゃんおばあちゃんのことを「お父さん」「お母さん」と呼んでいたこともあり、私もおじいちゃんおばあちゃんを“おとうさん”“おかあさん”だと思っていて、「おとったん」「おかったん」と呼んでいました。
・・“お父さんお母さん”が何だかということを実はよく分かっていなかった記憶があります;

そんな生活をしていたある日、(幼稚園生の頃でしょうか)母から突然変なことを言われます。

「今度苗字が○○(母の実家の姓)から○○に変わるんだけどいい?」

・・その時はよくわかりませんでしたが、子供ながらに名前が変わるのに少し抵抗があり
「うーん、やだな~」と答えました。

母は少しムッとしてその時はそのまま行ってしまいましたが、結局そのどれくらいか後に苗字は変わりました。
母が再婚したのです。

母は再婚相手を連れてきて私と何度も遊ばせようとしていましたが、私はその“おじさん”がどうしても好きになれませんでした。
なぜかは正直覚えていませんが、、

私があまりにも懐かないため母は私に言いました。
「今度あの人がかん子のお父さんになるんだから仲良くしなさい。」

私は確か全力で拒否したのを覚えています;
「やだ~やだやだやだ」

それから私は毎日のように
「ママとおじさんがりこんしますように~~」と悪気もなく口にしていました。
なぜ覚えているかというと、ある日こっぴどく怒られたからです(笑)

「お前はなんでそんなことばっかり言ってるの?!!そんなこと二度と言っちゃだめだよ!!」
・・かなり酷く怒られた私は、その後二度とそういう言葉を口にすることはなくなりました。

しかし本心は嫌で嫌でたまらなかったものですから、母の妹やらにそうとう当たり散らして大暴れしていたのを覚えています・・;
本当に母の妹にはとんだとばっちりというか・・いろいろ迷惑をかけたのを今でも思い出して申し訳なくなります・・・。
・・それでも子供好きな母の妹は私のことをかわいいと思ってくれていたのでしょう・・変わらず面倒を見てくれていたのを覚えています。
よく放り出されなかったと今では思いますが・・;

そんな子供だったので母からはよく「どうしょうもない子」と言われ、時には泣きわめいたり暴れ出して止まらなくなったりして柱に縛り付けられることもある程でした。

そんな幼稚園時代です。

それからしばらくして、母は私を連れて実家を出ます。
近くのアパートを借りたようでした。
時期はまだ小学校に上がる前です。
母と私、あとその“おじさん”の3人でアパート暮らしをすることになりました。

おじさんのことは母に「パパと呼びなさい」ときつく言われたため、渋々「パパ」と呼ぶようになっていたと思います。
正直口が曲がる程嫌でしたが、、なぜだかは私にもわかりません;

実はそこらへんの記憶はほとんどないのですが、しばらくして弟が生まれます。
私とは6歳離れた弟です。

そして弟が生まれたタイミングで、母は務めていた美容院を辞め、店舗が一緒になった家を建て、引っ越します。
と、同時に父もなぜかそのタイミングで当時勤めていた建築関係の会社を辞め、自営業を始めることになりました。(同じく建築関係の仕事です)

・・どうしてそのタイミングだったのかはいまだに謎ですが、状況的にはかなり滅茶苦茶だったと思います。
弟が生まれたばかりの大変な時に家を建て引っ越し、父も母も自分で仕事を始める・・
幸い、父の両親も母の親もとても協力的な人達だったので、お金の面やら、それだけでなく家事や子供をみてくれたりと、いろいろな面で様々な協力をしてくれていました。
母の妹もその頃度々手伝いに来てくれたのを覚えています。
その様々な人達の協力があってなんとか切り抜けることができたのだと思いますが・・もし誰も助けてくれる人がいなかったとしたらと考えるとどうなってしまっていたのか想像がつきません。
・・そう思うとやはり私達家族はかなり稀というくらい恵まれた環境にいたのだなと感じます。

しかし、後から振り返っていくら恵まれていたとはいえ、そんな滅茶苦茶で忙しい状況なので当時の家の中は本当に殺伐としていました。

父と母の夫婦喧嘩、これはほぼ毎日でした。
怒鳴り合い、時には取っ組み合いの喧嘩です。
母もよく殴られたりしていました。
実は母は父がサラリーマンを辞めて自営業を始めることは望んではいなかったようです。
「なんでこのタイミングで?!!」
「あんたの仕事なんてただの遊びと一緒だ!!」
そんな暴言を度々吐く母と、それに激怒する父、、
「じゃ、お前はどうなんだ!!」
先行きがどうなるかわからない自営業を二人で始めることへの経済的不安と焦りも大きかったのだと思います。

穏やかな日常とは無縁の毎日、
私は両親の喧嘩が始まる度に恐怖と不安でいっぱいになって二階にある自分の部屋に駆け上がり、閉じこもって時が過ぎるのを待ちました。
母がもしかして殺されてしまうんでは・・という恐怖もありましたので部屋にいるのも気が気ではなかったのですが・・
よく聞き耳をたててビクビクと経過を把握しようとしていたのを覚えています。
何もできませんでしたが・・・。

そして夫婦喧嘩だけではなく、私も毎日のように怒鳴られていました。
とにかく記憶にあるのは『毎日怒られていた』ということです。
毎日毎日、とにかく事あるごとに怒られていたので、私は毎日が怖くてたまりませんでした。

母は言う事を聞かなければ「なんでこんな悪い子なんだ!!」とヒステリックになり金切り声を上げて怒り出す人でした。
それでも私の態度が悪ければ(私はよく怒られるとムッツリ黙ってしまう傾向にありました)、更に頭に来た母は、私の部屋に行き私が大事にしているぬいぐるみや人形などを手当たり次第に投げまくります。
ぬいぐるみを投げるのがしょっちゅうなわけではありませんが、とにかく毎回そんな激しい感じで怒られていました。

その頃よく言われた言葉は
「お前は怒られるとすぐにずん黙って下向いてじーっとして!まったく何考えてるのか分かりゃしない!根暗でイジイジしててシンネリグンネリしてひねくれてて、女特有のいや~な底意地の悪さをすごく持ってる!薄気味が悪い!!」等々。
本当に憎らしそうな顔で毎回何度も繰り返し言われるもんですからセリフは覚えてしまっていました。

父はといえば、、教育、というか子育てに無関心というか、、何もわからないので口出しできないというのが正確でしょうか・・
遊ぼうとしてくれた時はあったとは思いますが、引っ越して家庭が不和になってからは不満とイライラを募らせるようになり、そんな平穏な感じは全く無くなっていたように思います。
母との喧嘩のストレスからでしょうか、よく母のいないところで意地悪のようなことをするようになりました。
笑いながら“東京タワー”や“梅干し”をやるのですが、とても痛く、遊んでもらっているはずなのに笑えません・・
また、何か悪いことをした時には二階に連れて行かれてぶん殴られます。(何の悪いことをしたのかは残念ながら覚えていません)
そして言うのです
「お母さんに言ったらぶっ殺すぞ」
その他、飼っていたハムスターの餌をばら撒かれたりだとか、ほんとうに私にとっては辛い毎日でした。
・・そんななので私は次第に母がいない時に父と二人きりになるのが怖くてたまらなくなっていきました。

そしてそんな毎日の中で、私は『自分には守護霊様がついている』と思い込むようになります(笑)
私の勝手な想像で、“守護霊様”は私が生まれる前に亡くなったひいおじいちゃんです。
その人がきっと私を守ってくれる・・・と、勝手に思い込むことにして、毎夜おじいちゃんに話しかけて寝ていました。
「どうか助けてください。」
「パパが死にますように。」
と。

母はというと、私が父と話せない理由を決して聞こうとはしませんでした。
「まったく、ひねくれててこの子はいまだにお父さんと口をききもしない!」と、思い通りに良い子にしない私にイライラするようにいつもなじってはいましたが・・
私が何か言おうとすれば頭ごなしに怒られましたのでそれについては何も言うことができなかったというのが正直なところです。
母は私の『本心』にはとても無関心でした。

それだけでなく、学校で何があったとか、私のいろいろな面倒くさいことについて、本当に全く興味を持っていないといった様子の母でした。
授業参観もなかなか来れず、遠足には母の妹が代わりに来てくれたりしていましたが、
母自身は「店を何が何でもやって、でも子供のことも要領よくこなしている。」といったことを自負しているようにいろいろ喋っていましたし、それを聞いたお客さん等も「偉い!」と母のことを褒めたたえていたのを覚えています。

子供のことは、『やることはやってやってるんだからあとは大丈夫』といった感じでしょうか・・。
とにかく当時母の頭の大部分は“お店”と“お客さん”で占められていたのだと思います。

しかし私としては『おばあちゃんやRちゃん(母の妹)にばかりいろいろやってもらって(当時はおばあちゃんがよく食事を作ったりもしてくれていました)、それなのに母はみんなに威張っていて、なんだか肩身が狭い』と子供ながらにとても居心地の悪い気分ではありました。
この件について後々になって聞いた話によると、おばあちゃんや母の妹にはいくらかお金を払ってやってもらっていたからいいんだ、との事でしたが;(そういう問題なのかということは別として(笑))
・・まあどうにしろ、状況がそんなふうに裏で複雑に入り組んでいたことなども子供の私は知る由もありませんでしたし、その時置かれた自分の立場みたいなものが本当には何一つ把握できていなく、ただただみんなに『やってもらってる』感で小さくなって過ごしていただけの子供の頃の私でありました。

まあ、母が私の本当の気持ちを何も知らないことや、私も自分が置かれた状況を何も把握していなかったという状況からして、
親子の間でのコミュニケーションがどれだけ不足していたということがよくわかりますが・・
・・それだけいっぱいいっぱいだったのでしょう。

現実として一人の人間がそこまでいろいろなことに手を回せるわけもありませんので、お店を成功させるためにはそれ以外の煩わしい問題があっては困ったのだ、と今では思います。
処理しきれるキャパがなかった・・ということです。
だから『問題は何もない』と、何がなんでも思い込もうとしていたのではないでしょうか。
・・思えばその頃母は30歳前後、、精神的にはまだまだ自分のことで精一杯な子供だったのだと、今の私は思うのです。。

それからもずっと、母は私が父と仲良くしないことがどれだけ『悪い子』のやることかを言い続け怒っていましたが、
私にとってそれはとても辛いことでしたし、いつもいつも『父がいない場所に行きたい』『父と仲良くしなくても怒られない場所に行きたい』と切に願っていました。

・・と、そんな毎日でしたが、それでもたまに母の機嫌の良い時はありました。
何も言われずとも掃除をしておいた時とか・・とにかく母の喜ぶ良いことをした時です。
そんな時は私の気持ちも「パァー」っと明るくなります。
ほんわかした気持ちになって、『この平和が一生続きますように!』と願い、一生懸命母の機嫌を損ねないように努めました。
なんだか嬉しいような恥ずかしいような気持ちで、動きも言葉もぎこちなくなっていたのを覚えています。
・・まあ、そんな平和な時間は大概長くは続きませんでしたが。

それでも私はたぶん・・一生懸命母を喜ばせようとしていたと思います。
誕生日には手作りの贈り物を毎年していましたし、母を決して『嫌い』ではありませんでした。

ただ、誕生日に贈った手作りの人形が一年も経たないうちにゴミ袋に捨てられていたのを発見してからはさすがにあげるのをやめてしまったのですが(笑)
今思えばデリカシーのない母のことなので深く考えずに汚くなった人形を捨てただけなのでしょうが、子供の私にとってはかなりのショックでした(いや、普通ショックだろ(笑))

・・幼い頃の私の記憶はとにかく
「逃げたい」
「怖い」
「怒られたくない」
・・そして「寂しい」「悲しい」
です。

『もしかして大人になったら怒られなくてすむようになる時が来るのかな・・?』とぼんやり考えていたのを覚えています。

それが私が小学生低学年あたり・・弟は6歳下なのでまだ赤ちゃん~幼稚園生でした。

(つづく)

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