34話 毒母との同居生活 2

結婚と離婚
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前の記事のつづき)

子供達は、一番近くの学区内の町内の登校班に入れてもらい通うことになり、送り迎えはなくなりました。

私は子供達を送り出した後に洗濯やらをやって今まで通り店に出ます。

自宅から通っていた頃は、子供達が帰って来る3時頃にお客さんが切れれば仕事を終わして、夕飯の買い物等をして帰り家事をやる、というパターンの生活をしていたのですが、
これからは私一人で子供達を養っていくというのもあり、今までのような悠長な働き方をしているわけにはいきません。
(というのも今考えると思い込みの一つだったんですが・・・実際働く時間が長くなっても給料は変わってないし)

それに今度は店のすぐそばにある実家に住むことにより3時で急いで帰る必要もなくなるので、私は最後のお客さんが切れるまで、フルタイムで働くことになりました。
まあ、夕飯のおかずの買い物なんかも両親が一緒に買ってきたりしてサポートしてくれ、子供も誰かしらの目の届く範囲にいることで私も安心して遅くまで仕事ができる、という感じです。
母は「こんな好都合な生活はないはず。」と言っていましたが、私はというとなんだか子育てもお金の面も半分両親に頼るような、とても窮屈な気持ちになりました。
私の、子供達と居られる時間が必然的に減って、その分母が子供達の面倒をみる時間が増えるというのもなにか少し複雑な思いでした。
「私達がみてやってるから安心して仕事ができるでしょ?」と母は言っていましたが、
私は、『私が子供達と一緒にいたかった』という気持ちが実は大きかったのだと思います。
・・いろいろ子供に話したい大切なことや、教えたいこともたくさんありました。
なにより私のようにメチャクチャで何も知らないまま育って欲しくなかったのと、
親が仕事を優先するあまり子供を放置したり他の人に任せきりにしたりというようなことだけはしたくないという強い気持ちが私の中にありました。
そう、自分が子供の頃したような思いだけは子供達には絶対させたくない、というのを子供を産んだ時からずっと強く思って来た私だったのです・・・。

それから、子供達が帰って来るのに合わせて、何か飲み物やらおやつやらをあげたり様子を見るということで、母は私の代わりに仕事を早いうちに抜けることが多くなりました。
私としては『良い機会だし、このまま母は徐々に引退していって店を完全に私に引き継いでくれる気なのかもしれない。』みたいな風に捉えていたところもあります;
今が一番中途半端でやりづらい時で、自分で経営するようになればある程度お客さんの予約や時間やその他いろんなことも自分のペースで采配できるから子供達のことも考えられる・・等々、いろいろと自分の中では少しずつ計画を立てたりもしていました。
とにかく、自分一人で店を経営する日のためにもいろいろ頑張ろうと、その時は心に強く思っていたのを覚えています。

仕事が終わると実家に帰宅、買い物はやはり足りない物も多いので自分でも買いに行くような感じになりました。

料理ですが、育ち盛りの子供達と父母の食べる物はやはり全く同じというわけにはいかないので、
私がまず子供達が食べる物を最初に作り、その後で母が自分達の食べたいものをつけ足して作る、という形になりました。
私は多めに作るので、父母はその中に食べたい物があれば私の作った物も食べる、という感じです。

母はさっぱりした物しか食べませんでしたが、父の方は外で働いているのもあり、トンカツやハンバーグ等のガッツリ系の物も喜んで食べていました。

と、そんな感じで料理を作っていた私ですが・・
母はそれに対しても良く思ってはいないようでした。

どうやら『料理が凝り過ぎている』ことが引っかかったようです。
それを気に入らなさげにまたお客さんやいろんな人に話していました。

「ハンバーグやコロッケや、そんな手間のかかるものはカロリーが高くて、そんなのばっかり食べてたら太ったり体に良くない、
若いから凝って作りたいのはわかるけど子供達にも良くないし、私達年寄りには胃に負担がかかるからダメだ。人のことも考えなきゃダメ。」と。
「それとそんな料理に凝ってるのは暇があるからだ、そんな時間かけてちゃダメ。そんな暇があるならカットの勉強とかもっとやることがあるでしょう。私なんかはがむしゃらに仕事を頑張って来たからそんなんやってる暇もなかった、休みの日なんかも年中講習会行ってたもんだ。
仕事と家庭を両立するには家事なんかに時間かけないでサッとやんなきゃ。要領悪くって。料理ももっと簡単な物を作んなきゃダメ。毎日のことなんだから。専業主婦じゃないんだからね!」

・・次から次から・・
とにかく気に食わないということでしょう。
母は私のやることなすこと気に食わなさそうで、終始文句を言っていました。

しかし、それらの事を見ている子供達は当然良い気はしていなかったのだと思います。
母親である私が文句や悪口を言われたりだとか、いろいろ言われているのを見ていた子供達は、徐々に母に反感を持つようになっていました。
そして口答えするようになり・・
ある日上の女の子と母で大喧嘩になりました。
「ばあちゃんうるさい!!」
上の子は母に飛び掛かりました。

母は悲鳴を上げて助けを求めました。
「まったく恐ろしい!怪我させられちゃうよ!こんなきかない子はいないよ!!かん子、子供の躾がなってない!!もっとちゃんと怒りなさい!!!まったく、私がこんなにやってやってるのに感謝も何もないどころか結局は親の方につくんだから!孫なんてどうせいっくらやってやったってわかんないんだ!!もう私ゃやだよほんとに!!冗談じゃないからね!!」
・・母はものすごい激怒です。

私はなんとか子供をなだめ、二階へ連れて行きました。

確かに上の女の子は口は達者だし大人しくはない方ですが、こんな癇癪(かんしゃく)を起す程のきかんぼうというわけではなかったので正直焦りました。
『これはまずい・・』

母からは「かん子の子供達はどうしょもない」というレッテルが貼られます。
一番困るのはそれを店のお客さんや、いろいろな人に言いまくることです。
それだけは避けたかった私は子供達に必死に「ここはばあちゃんちなんだから、少しのことは我慢してくれ。ばあちゃんちのルールがあるんだし世話んなってるんだから、上手くやっていかないと。」ということを言いましたが・・
子供達は納得いってなさそうでしたし、とても悔しそうでした。

今思うと当然ですね。。子供達にとっては理不尽な悔しい思いです。
しかしそんな思いを子供にさせてしまっていた一番の原因は実は私だったのだと心の底から気づいたのは、かなり後になってからでした。

この私のどっちつかずの腰抜けな対応こそが、いつでも子供達や、旦那さんや、私を通して母に関わる人達を間接的に苦しめてしまっていた一番の原因だったのです・・・。
要するに私は、私自身が母の世界に巻き込まれるのと共に、私に関わる他の人達をも一緒に母の世界に引きずり込んでしまうような行動を常に取ってしまっていたのです。

しかし私はそのことにはその時まだまだ気づいておらず、
一生懸命に、とにかく穏便に事を運ばせて平和な生活ができるようにといろんな取り繕いをしていました。

外仕事の父は、夜はいつも早々と寝てしまっていました。
母はテレビ等を見ていて父よりは遅くなるものの、やはり次の日の仕事に響かないようにと昔から一生懸命早く寝ることを心がけている人でした。

・・しかし、うちの子供達はけっこう遅くまでいろいろやっていて、寝るのがどうしても遅くなってしまいます。
それで夜遅くまで電気がついていると母がすごい剣幕で二階に上がって来ました。
「早く寝なさい!!私は明日仕事なんだから!寝られなかったら大変でしょ!そんな二階で電気付けられてたり物音がしてたら寝らんないがね!!」

とにかく神経質な母は少しの事でも気になって眠れなくなってしまうのもあり(以前睡眠導入剤を飲んでいた時もあります)、ものすごい剣幕で怒って来ました。

そんなわけで私達はなるべく早くに電気を消すことと、遅くなった時はなるべく物音を立てないように静かにするように極力気を付けました。
お風呂ももちろん変な時間に入ると怒られるので、夕飯が終わってからすぐくらいに入ります。
・・なんだか3人で二階にいてもお通夜のようになっていました。

それからいろんなことに関して母はどんどん口を出すようになってきました。
なにせ一緒に生活をしているので生活に関する全てのことです。
とにかく『母の』やり良いようにならないと家が回らないというのが母の考えなので、
母がやりづらいと思ったことに関してはことごとく直すように言われました。
時間に関してもそうでした。
母は私の行動についても全てを仕切り始めました。
何時に起きて何をやって、何時に出勤して母の合図で仕事を終わして、家に帰ったら何をやって・・
今日は外食だとか、そういうことも全部母が決めました。
「外食だから作んなくていいからね。」とかいう感じです。

弟家族が来る日は、弟家族も一緒に食べに行くのが常でした。
その他、旅行や、おばあちゃんの家に行ったりとか、親戚づきあい等、全て私と子供達は母と共に行動することになりました。
旅行等のお金は母が出してくれます。
私達は極端な話、行きたくなくても母が『お金を出して連れてってくれる』その旅行に一緒に行かなければならないのが当たり前で、断るというのは非常に気まずく勇気がいる状態になっていました。

私の休みの日はもちろん母と同じなので、その日の予定等は聞かれます。
どこへ行くかとか、全て母に言っておかなければなりません。
もちろん子供達がいるので帰りが遅くなってはダメです。
仕事の休みは火曜日と第三日曜、第三月曜なのでたまに子供達と休日(日曜日)が重なりますが、
そういう日に私が子供達を置いてどこかへ一人で出かけたりすることも許されませんでした。
子供達を少しでも放置すればそれは「ネグレクト」だと母は言い出します。

・・確かに私もなるべく長い時間子供達とは一緒にいたいとは思っていましたが、四六時中監視したり必要以上にくっついていたいわけではありません。。
あと少しで中学生になる子供達、もしかして中学生になっても目を離したらそう言われるのだろうかと私は頭がグワングワンしてくるのを感じました。

そんなこんなの生活をしているうちに私は、いつの間にか自分のペースで何かをやるということが全くできないようになっていました。
というより、実質私の自由はほぼなくなりました。(あるとしたら母が許可した時だけです)
母は『楽をさせている』という風に表現していましたが・・私の気持ちは『楽』どころか完全に檻の中に入れられてしまったような絶望感漂う最悪の感覚でした。

そんな、母に管理される生活の中で私は『自分の強い気持ちで何かをやる』、、というよりかは、やはり毎日の『やらなければならないこと』に追われる感じが強くなって、やる気云々よりも『ただ必死にこなしている』に近い気持ちになっている良くない状態の自分を感じていました。

『子供二人を育てるのに甘えた考えではやっていけない。』
確かにそれは心に強く思っていました。
・・しかし、この管理された生活は本当に正しいものなのだろうか・・私と子供達に必要なものなのだろうか・・ということが頭を過りました。

私のこの生活は明らかに子供だったあの頃と同じ状態でした。
母に管理されて指示されて、嫌なことも嫌と言えず、追い出されないように顔色をずっと見て、いろんなことを我慢して、母の機嫌が悪く嵐が起きればただただその時が過ぎ去ることをじっと耐え続けて過ごした子供時代。

・・あんなに嫌だったのに戻って来てしまった・・・。
大人になってこのような、あの頃となんら変わらない生活をしなければならないことは、母の反対を押し切って結婚、そして結果離婚するというバカをやったことの代償なのだろうか・・
どうして私の人生はいつもこんな感じなのだろうか・・
果たして他の人達もみんなこんなような思いをしているのだろうか・・
もっとそれ以上の苦労をしている人も多いのだからこんなことは仕方ないのだろうか・・
そもそもこんな考えをする私が贅沢なんだろうか・・・我儘なんだろうか・・・未熟者なんだろうか・・・
いろんな思いが頭を駆け巡りました。

しかし一つ明らかだったのは、
私はこの生活がやっぱり『嫌』でした。

その時ふと旦那さんの言った
「お前はどこへ行っても同じだよ。」という言葉が思い出されました。

なぜ・・
なぜ・・

私はいつしか、子供の頃封じ込めてからずっと、長い年月の間心の奥底でくすぶっていた何か、あの怒りにも似たモヤモヤな感情のようなものが、また再び私の中で徐々に大きく膨れ始めるのを感じていました。
それはもう、子供の頃よりももっとずっと大きく、です。

・・というかこんなふうになることは実はたぶん・・実家に入ることになった時点で分かっていたのです・・・。
これこそが正に、最初に感じたあの絶望感だったのだと今ではよくわかります。

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