32話 児童扶養手当(母子手当)をもらうために嘘をつく

結婚と離婚
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いよいよ本格的に私と子供達の実家暮らしが始まります。
・・前に書いた通り、実家に入るという事にものすごい絶望感を感じたことやいろいろ複雑な思いはありましたが、とにかく何よりも『今』生活しなければなりません。
子供達にご飯を食べさせて、学校に行かせることはもちろん、なるべく、しかも私の身勝手で不自由な思いはさせたくありません。

私は子供達の生活を守るためにいろんな思いは置いておいて、とにかくやれること、やらなければならないことをやろうという思いで必死で動いていました。

と、その前にもう一つ手続きがありました。
母子家庭で重要な母子手当の手続きです。

母子手当とはいわゆるシングルマザー(シングルファザー)に国から支給される助成金ですが、
これをもらうためにはいろいろと条件があるらしいことを聞きました。
支給される額も計算方法があり、いろんなことが考慮されるためちょっと複雑になります。
はっきり言って役所に行って申請してみないといくらになるのかよくわからなかったのと、とにかく早く申請しないことには支給される時期がどんどん遅くなってしまうので、
「とにかく行って条件を見てもらって算出してもらおう!」と、私は仕事が休みの日に合わせてなる早で市役所に手続きに行こうとしていました。

しかしここで母からちょっとストップが入ります。

店でお客さんにいろんなことを訊いていた母、、
どうやら娘が離婚経験があるお客さんのようで、そのお客さんにいろんなアドバイスをもらったようです。

そして言ってきました。
「母子手当は一円でも多くもらった方がいい。」

そしてその一円でも多くもらう方法を母は考えていました。

収入が多いとその分減額されてしまうというので、働く時間は増えるものの私の給料は8万円で変わらず。
(働く時間が増えるというのは、実家で一緒に暮らせば私が働くのを母達がサポートできるから家から通っていた時より長く働けるだろうということです)
この先もずっとそんな金額で子供二人抱えてやっていけるのかとも思いましたが、母子手当を足せば問題ないとの母の考えです。
結果的に私がもらう金額は変わらなくても、母が多くお金を払うよりかは国からもらった方が得・・といったところでしょうか。
「その分親だってお前らのためにお金使えるし、食事だって一緒にすればいいし、いろいろ面倒見てやれるんだから。」とのことでした。

それと一つ大きな不都合があることがわかりました。
実家で収入のある親と暮らしている場合は一緒の世帯ということになるので減額になる(か、もらえない?)ということらしいのです。
そこで母は、
「おまえ達は私達と一緒に住んでいるんじゃなくてお店(美容院)の裏の部屋を賃貸として親に家賃を払って借りているということにしなさい。」という提案(指示)をしてきたのです。
・・なにか、どう考えてもちょっとおかしいし、
俄かに信じてもらえないような事を市役所の人にどう説明すればいいんだろう・・と、私の頭に不安が駆け巡りました。

しかし母は私がちゃんと『嘘』を言えるように、紙に『市役所で言うこと』を全部書いて私に渡してきました。
「お前はそういうの下手なところがあるんだからちゃんと言うことここに書いといたからこれ通りに言うんだよ。それから相手も人間なんだからなるべく哀れげに言った方がいい。」と。
「あたしはこういうんが上手いんだから。」とドヤ顔。

・・私の心の中には一気にどよ~~んとした重い空気が立ち込めました。
『嘘をつかなければならない』
そう思うともうそれがとてつもなく重荷になって市役所へ行くのが億劫でたまらなくなってしまいました・・。

『ああ・・私ってほんとにダメな人間だわ・・・。小心者でどうしょうもない・・・。』
私は自分を責め、一生懸命にセリフを練習しました。
『でも、ちゃんと母子手当もらわなきゃ。頑張らなきゃ。』

・・もう市役所へ行く前から汗ダラダラでした(笑)

そしていざ市役所へ行き住所変更も済ませ、いよいよ児童課での申請手続き。
案の定住居を店の住所にした件についてはいろいろ訊かれたのですが、私はしどろもどろになりながら一生懸命に母に言われた通りのことを説明したのでした。
一応一通りの手続きは終わってその日は終わり。後は結果待ちです。
金額等はその場でわかるわけではなく、後でお知らせが来るらしいとの事で私は家に帰りました。

母には
「いくらもらえるって?」
「いつからもらえるって?」
と、何度も聞かれましたが、それは私にもわかりません。
市役所からの支給額と支給日の連絡(たぶん封書)を待って、それからしばらく音沙汰なしの日が続きます。

その間にまた一つ事件がありました。
子供の学校のことです。

やっと引っ越しが終わり一段落したと思って少しホッとしていたところに学校から連絡がありました。

「○○君と○○ちゃんの住所変更の件なんですが・・・」

家と実家は車で10分くらいの場所なので、学校の方は問題ないだろうと思っていたのですが、
実は実家は子供達が通っていた小学校の学区から道一本だけ外れていたのです。
なので学区外ということになるので小学校を転校しなければならなくなってしまいます。

「そんな、ほんのちょっとですよ?全然通える距離です。今から転校なんて、このまま通い続けることはできないんですか?親の都合で家も変わらなきゃならなくなって、いろいろ子供達も大変なのにこの上学校まで変わるなんてかわいそうで・・・」
私は涙声で食い下がりましたが返って来た答えはNOでした。
まあ当然です。

「だめなんです。住所が学区内でないと転校ということになるんです。それはできれば慣れた学校に居させてあげたいのは私共も山々なのですが・・・住所が学区内にないことには・・住所があればいいんですが・・」

一つ終わるとまた一つ・・
いろんな壁に次々ぶち当たる。(物事を舐めてかかっていた代償に過ぎないのですが)
なんだか何をやるにもことごとく障害が立ちはだかるような、いろんなものに邪魔をされているかのような心境になり、私の心は憔悴しきっていました。
食欲もなく、体重はその頃一気に5キロくらいは減ったでしょうか・・;

しかしふと先生の言っていた言葉を思い出しました。
「学区内の住所があれば」

要するに小学校卒業まで子供達だけは今までの住所のままということにしておけば転校しなくても済むんではないかと。
その旨先生に確認すると
「それならOKですよ。」とのこと。

私は早速旦那さんに連絡し、いろいろ説明して、卒業するまでのあと何年かは子供達だけ旦那さんの住所と一緒にしておいてくれないかとお願いしました。
それによって旦那さんの方に生じる子供達の国民健康保険料(国民健康保険料の請求先は『住民票にある住所』です)は毎月その額分振込しますとの約束で承諾を得ました。
そしてまた市役所へ行き子供達だけ住所変更・・・。

・・そんなこんなでまた複雑なことをしてしまったので、それによって学校側では事情を分かって配慮してくれるものの、
役所とかの書類上では子供達が旦那さんと住んでいることになってしまうのに母子手当はどうなるの?とか・・
なんだかいろんなことがめちゃくちゃになっていっているようで私の頭はその頃とてもカオスでした。

そして母子手当の件ですが・・
手続きから暫く経ったある日市役所から電話が来ました。
そして言われました。

「民生委員の方からのお話ですと、お店の方に住まれている様子が伺えないとのことなのですが・・・」
私はぎょっとしました。
市役所の人も言いづらそうです;

「その・・洗濯物とかも干されていないし、お店がお休みの日は雨戸が開かないと・・。本当に住んでらっしゃるのでしょうか。」

ビビりの私ですのでもう真っ青です(笑)
またしてもしどろもどろに苦し紛れの言い訳を思いつく限りいろいろ言いました。
(なんかどっかの政治家を思い出します)

「・・わかりました。では引き続きもう少し様子を見させて頂いて、支給されるかどうかはその後に決めさせて頂くことになります。」

さすがに簡単にはもらえません。
というか民生委員さんがそんなしっかり見張っているのだと言う事もびっくりしました。

それを言うと母は言いました。
「引いちゃだめ!住んでるもんは住んでるって言い張るんだよ!何がなんでももらう気でいないと。お前は気が弱くってダメだ!全く情けない!」

正直私は『もういいよ・・・もらえなくても。その分ちゃんと働いて真っ当に生きた方がいいよ・・』と心の中で弱音を吐いていました。
そしてそんなへっぴり腰な自分をまた情けなく、大人として恥ずかしく思い、誰かに励ましてもらって勇気を付けたい気持ちからかその出来事の経緯と思いを一人の友人に吐いたのでした。

・・しかし返ってきた答えは私が思っていたのと全然違うものだったのです。

「はぁ??何言ってんの?市役所が怖い?民生委員が見張ってて怖い?愚痴?悪いことしてて何言ってんの??嘘ついて助成金だまし取ろうとしてんでしょ?信じられない!今、生活保護の不正受給者の問題とかよくテレビでやってるよね、あれと同じようなことしようとしてるってことでしょ?そんなことしてる人がいるから違うところで困る人がたくさん出てくるんじゃないの??」

まさに鳩が豆鉄砲状態でした。
私は勇気のないダメな自分を責められることはあっても、まさかその行為自体を責められるとはつゆとも思っていなかったのです。
・・だって、私がしているのは母が言った『正しいこと』なのですから。
例え世の中の制度が表向きにどのようになっていようが、一般的には母の言うことがより『現実的』で『みんながやっていること』で、極めて『普通』であり『常識』なのですから。

私はその友人に何を言われているのか、どうしてそんなことを言って怒っているのか最初理解できませんでした。
何きれいごとを並べる理想主義者みたいなこと言ってるのか、まさか友人がそんな事を言うはずがないと・・非現実的意見に思えて思考停止してしまいました。

・・でも徐々に、そのあたりから私は自分の中のいろんなことを本当の意味で疑い始めたのかもしれません・・。
自分の中にある、自分の信じて来た常識やら正義やら自分への評価やら、それはもういろんなものです。
その頃精神的に弱りに弱っていた私は、普段なら言わないような心の内をけっこう友人達に喋ってしまっていました。
確かに恥ずかしいし迷惑な事ですが・・・
それによる友人達の反応によって、私は鏡を見るように自分の姿を見ることができたんではと、今では思うのです。

『あれ・・もしかして・・誰が間違っているの・・』

それは『気づき』の始まりだったように思います。

結局、母子手当はそのままいつになっても支給されることはありませんでした。
しかし母になじられながらも私の中にはもう市役所に抗議に行くエネルギーはありませんでした。
心がすっかり折れていましたから。
・・というより、友人にあまりにキツく言われたことで、母の言葉や自分のしている事を信じる事に迷いが生じ始めていたというのが本当の理由なのかもしれません。

そんなわけで結局私は、母子手当も支給されず、給料も低いというWの悲劇のままの状態で不安定な生活を続けることになったのです。
必然的に食費やいろんなものはどうにしても実家に頼らないというわけにはいかない状況になっていました。

仕事なのですが、母との口約束で『今はお給料が低くてもいずれ母が引退した時に経営を引き継ぐ』という条件で入った私には他で仕事を探すという頭は全くなく、
よってもう完全に、仕事の面においても生活の面においても、全てのことが実家がなければ・・というか母がいなければやっていけないような形になってしまったのでした。
・・今思うとまさに完全依存状態にどっぷりはまった感じです。

そしてそんな肩身の狭い立場になったことで、なんだかもうますますあの何もできず無力だった、母の言いなりだった子供時代の環境が私の脳裏に蘇ってきたのです。
それはもう、私の中の封じ込めていた思い出したくない恐ろしい何かが一気に呼び起こされたような、そんなゾワッとした感覚でした。

なぜあんなに嫌だった子供時代と同じような環境に、いつの間にかまた再び身を置くことになってしまったのか・・。
『こういう風にだけはなりたくない』と、いろんな抵抗をして考えて行動したつもりなのに・・
何かまるで神様か誰かにそこ(その状態)へ行くように誘導されたかのように不思議とそこへ向かうためのようないろんな問題が重なって、結果行かざるを得ないような状況になって流されてしまう・・・。
この不思議。
結局私は、気が付けばまたしてもその『母の望んだ通りの状態』にしっかりと辿り着いてしまっているのです。

『いつも母の元に戻る』、あの奇妙な現象。
しかもいつものように小さなことでではなく、今回は私の人生におけるいわば最大級の重要な分岐点です。

こんな重大な時に、『またコレ』感パない。

その時私はそれを絶望感と共に『抗えない運命』みたいに思ってしまったのを覚えています・・。

そして本格的に母に完全に『管理』される日々が始まりました。

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